「記録」という自分の経験や思考などをコレクションするのが好き
なんで自分は今までブログを書き続けているのか、SNSをやるのかを考えたら「記録」することが趣味のひとつであり遊びみたいなものだと気がついた。
そしてそれは誰かのために書いているわけではなく、将来の自分自身が読むために書いているというのが今日の気づきだった。
僕はSNSよりも基本的には「ブログ」を大切に思っている。
それはSNSでは検索に引っかからないし、下手をすると今まで書いたものが消えてなくなってしまう可能性もあるから。
もちろんブログだって消えてなくなってしまう可能性はあるのだけれど、自分でサーバーを立てて運営するWordPressのブログでなければ、基本的に課金をしなくともブログそのものが無くなる心配はない。
僕が以前やってたWordPressのブログでは、ちょっとしたミスでサーバー代金を払い忘れたなら即座にアクセスできなくなってしまう。今ははてなブログProで書いているがもし課金をせずに放置したとしても無料ブログとなって残り続ける。
僕が10年以上前に書いてたlivedoorブログが今でも残っているように、数十年してもある程度は残ってくれるのがブログサービスのありがたみだと思う。
僕は「キロク」することが好きなヲタクです。
記録すること自体が好きになった。「その日に何をした、何を考えた」という事実を残したいと考えるようになり、それらのデータをコレクションするように楽しんでいる。
大学生の頃からポケットサイズのノートを持ち歩くようになり、そこから手帳を使うようにもなった。スケジュール管理だけでなく日記のようにも使って日々の記録を残した。
その後ブログを書くようになり、自分が作った物とか考えたことをネット上に書き溜めるようになった。もちろん今でもスケジュール帳も使うし、ノートも用途別に数冊持ち歩いてる。
結局のところ、「キロク」することが趣味なオタクなのである。
だからノートも手帳も何冊も買っちゃう。
Evernoteのアプリも課金しちゃうのに、iCloudやドロップボックスなどのアプリも使う。
日々の記録をコレクションするためにノートや手帳やクラウドを使うのが単純に好きなんだね。
「記録」が好きなくせして忘れるのをどうにかしたい
僕ね、物忘れが激しいみたいなんですよ。
そんなに自覚はないのだけれど、嫁ちゃんと話していると「それ初耳!面白いね!!」なんて言うと「前にも話しましたけど?」ってことが多々ある。
何度も話したであろうことを、初めての感覚で聞いちゃうんだよね。
まぁそれはそれで「ありがたい体質」だと言うことにしておこう。感動を何度も体験できるのは最高だ♪
そしてもうひとつ、忘れないようにメモを取ろうと思うんだけど「メモをすること」すらも忘れてしまうことがある。あるよね?ない?
平日仕事をしている時はいつもポケットサイズのノートを持ち歩いて頻繁に書いてるからいいんだけど、休日とかはメモを持ち歩いてたとしてもほぼ何も描かないままに1日が過ぎる。
メモ帳やノートとは別に、Evernoteに関連するアプリを使ってライフログ(行動の記録)をつけてたりするんだけど、無意識で過ごすと何も記録しないまま1日が終わることもたまにある(爆)
記録を残すのを忘れるクセに、残したがるんですよね。
でも残せていないとそれはそれで不安になるんですよ。
何も残せてないと「その日が何もなかった」ような気がしてしまって。
だからこそ残したい。記憶として忘れてしまうから、記録として残したい。
人は2度死ぬと言われる。1度目は肉体が死んだ時、もう1度は忘れられた時。
人間にとって「死ぬこと」は逃れられない事実であるのだけれど、歴史の偉人たちは今もなお忘れられずに生き続けています。
僕自身、生涯に何か大きなことを成し遂げられるかは分かりませんが、何かしらの行動を通じて「忘れられない」ようにしたいという欲求があるのだと思う。
それが「記録する」と言うことであり、それをインターネット上にばら撒くことで僕が生きた証を残せるのではないかという小さな野望です。
僕がブログで書いていることは誰かの役に立つようなものではないかもしれない。これは僕が将来、「あぁこんなこともあったな。こんなこと考えてたな」とか思い出にふけるための文章でしかないかもしれない。
もし僕が死んだとして、家族が将来見るかもしれないし、見ないかもしれない。それは結局他人の課題であるから「見てくれ!」とも思わないし、「見ないで!」とも思わない。
僕という一人の人間がいて、こんな行動をしてこんなことを考えてたという「事実」の記録さえ残ればいいかなと思って今こうして書いている。
でも人はいつ死ぬかわからないものだから、誰しもがブログを書けばいいのになって思う。
それは別にブログでなくてもいいけど、TwitterでもFacebookでもYoutubeでも自分の存在を記録としてデジタルの世界に爪痕を残せばいい。
でもTwitterは2000ツイートくらいから古い投稿は消えるらしい(詳細は不明)し、LINEブログなんかは更新がなければ消えるみたいなので何かしら残りそうなサービスを使って書くといいよ。
僕自身が十数年前からこうして「記録」をし続けてはいるのだけど、やろうと思っているけどまだやっていない記録もある。
それは遺書を書き残すこと。
遺書を書いたら「生きること」をすぐに諦めてしまいそう。
人はいつ死ぬかわからない。
次の瞬間に心臓麻痺を起こすかもしれない。
寝てしまったらそのまま目を覚さないかもしれない。
通勤途中で事故に遭って帰らぬ人になるかもしれない。
いつか死ぬであろうけど、それはどのタイミングかわからない。
だからこそ僕はそのために遺書を書き残したいともずっと考えている。
家族一人一人にメッセージを送りたいし、なんなら動画を撮ってYoutubeにアップしておいて「僕が死んだら見てね!」と伝えておきたい。
娘が中学生になったらお祝いのメッセージ、成人式のためのメッセージ、結婚したときのメッセージとかを残しておきたいと思う。生きていればそれはそれでいいのだけれど、もし死んでしまったら伝えることはできないので今のうちに残したい。
そう考える自分がいる。
でもそれをやったらどうだろう。
事故とかせ生死の狭間にいるときに「あ、もうメッセージ残してあるから安心だ」なんて考えてしまって生き返ることはできないだろう。
もしエベレストの頂上目指しているときに遭難したなら、「ここで寝てはダメだ!生きて帰るんだ!」なんて強い意志を持てなくなるのではないか。
そもそもエベレストなんか上れないなんてことは・・・まぁいい。
とりあえず家族へのメッセージも生きているうちにちゃんと記録として残したい。自分が生きながらえたなら、その都度更新してアップデートしたメッセージを書き加えていったらいい。
というか、日々の生活の中で嫁ちゃんなり子供には自分の気持ちを素直に伝えておくのがいいのかもしれない。
他にも挨拶とかね。
「ありがとう」
「おはよう」
「行ってきます」
「いただきます」
「おやすみ」
その言葉のやりとりが、いつか最後になってしまわないか・・と思うこともしばしば。
だからこそ喧嘩してても「おはよう」「行ってきます」は伝える。
最後の言葉はなんだっけ?とならないように。
結局のところ、僕が何かを残したところでそれを家族が見なくても全然構わない。
見たかどうかは僕はわからないのだから。
僕の記録は単なる自己満足、遊びのひとつ、趣味のひとつ。
(家族が)見なくたっていいじゃない お遊びだもの
みあぽん