書き残さなくては何も残らない。だから僕は小さな記録をブログで残す。

自分で残そうと思う意思がなければ残らないし、残ったものが必ずしも自分の意思とは限らない。

 

僕がもともとブログを始めたのは

自分が作った物について「記録」

を残そうと思ったから。

 

最初は作ったものについて

どう作ったか

自分のアイデア

制作過程

を記録として残すため。

 

そのうちに自分が好きなものを

なぜそれが好きなのか

こういう所が好きなポイント

改善して欲しいポイント

それに関する感想など

を書くようになった。

 

ネタがなくなってくると

日記や思いつきや考えてたことなど

とりあえず身の回りに起こったことや

その日にやったこと

これからやりたいことなど書くようになった。

 

だから基本的に僕のブログは

自分が好き勝手書くための雑記ブログ

なんだけれど

読者を設定することもなく

ただ自分の好きなことを

ただひたすら書き続けて

7年になりました。

 

ツイッターを見ていると

ブログで稼ぐ

ブログアフィリエイト

月100万の売り上げ!

など、ブログをやるなら稼がないと

といった風潮が目立つように感じます。

 

僕自身、せっかくやるならそれが小遣い稼ぎになるなら

正直なところ嬉しいし

そういうつもりでやっている時期もありました。

 

だけど誰かのためとか

お金のためとか

そういうことを考えていると

今こうやって書いている

自分の中の思いみたいなことを

本来書きたいと思っていた自分のブログに

書けなくなる感覚も感じていました。

 

好き勝手書きたいブログ

好きなことを書いてブログで稼ぎたい気持ち

お金のために書く記事

お金なんて気にせず思うがままを書けるブログ

そういったものがずっと頭の中でグルグルしていて

自分がやりたいことは何なのだろうと考えることが

幾度となくあります。

 

仕事をやりつつ、副業としてのブログ運営をしたい

仕事とは別にブログからの収益を得たい

かといってそのために好きでもないことを書くのは嫌だ。

 

ビジネスとしてのブログには興味はなく

何でブログをやり続けるかを考えると

結局のところは「自分が生きた証」

残したいという一心でやり続けてきたように思う。

 

僕はこんなことを考えていたんだ

こんなものを作ったんだ

こんなものが好きなんだ

こんなことをやりたかったんだ

こんなことをやっているんだ

 

それらを誰に届けるでなく

自分自身が読むために書き続けています。

 

自分のブログの最高の読者は自分。

 

もちろん誰かの役に立つなら嬉しいし

そこからブログ収益が発生するならなお嬉しい。

 

でもそれらがなくとも

自分自身との対話として

ブログを書き続けることが楽しい行為であるから

誰にも言われずに7年も続けてこれたのだと思う。

 

本を読んでもTwitterを見ても

読まれないブログは意味がない

稼げないブログは意味がない

日記ブログに価値はない

そんなことが散々言われているし

自分自身が「そうだそうだ!」と

声を上げることもあった。

 

 

本当にそうなのかな?

他人に読まれずとも自分が読者なら良いんじゃない?

稼げなくても好きで書いてていいんじゃない?

日記は誰のためでなく自分のためでいいんじゃない?

 

本業で稼いでいるんだから、

ブログくらい自由に書いていいだろう

って思うし

なんだかんだ今までそうしてきてた。

 

稼げることならブログで稼ぎたい

だけど稼ぐために書こうとするとストレスになるし

結局のところ「読まれない・稼げない」他人が見て

つまらないブログが出来上がるのだけど

 

今こうやって書いている思いだって

嘘偽りがあるのではなく

今この瞬間に思っていることを

言葉としてアウトプットしているわけだし

 

本来ブログって何を書いてもいいという

「自由」があるはずなのに

自由でなくしているのは自分自身だってことなんだよね。

 

 

例えばTwitter上で日々呟くことは

蓄積されることはないし

数千ツイートもすれば古いものから削除されるので

過去の記録を残すには適さないと思う。

 

僕は死の恐怖に踊らされて「記録を残す」ことに

必死に取り組んでいるわけではないけれど

生まれてきた以上は何かしらの痕跡を残したいとは思ってる。

 

近しい人であっても知っていること以上に

知らないことの方が多いと思うんだよね。

 

自分の父親はすでに亡くなっているけれど

日々何を考えて生きてきたのか

家族のことをどう考えていたのか

自分の人生についてどう考えていたのか

 

僕がそれを想像することはできても

父が何をどう考えていたのか

それを知ることはできない。

 

それを知ったからといって

自分の中の何かが劇的に変わることはないかもしれない。

逆に人生が180度変わるかもしれない。

 

ただ残念なことに

記録を残していなければそれを知ることもできない。

 

記録があったとしても解釈による部分はあるけれど

考えるきっかけすら残らないのはどうにも寂しい気がする。

 

だから僕は何でもいいから

日々の小さなことでも

何かしら思い出すため

思い出してもらうための

きっかけとして

ブログを書き続けていきます。